親が経管栄養(胃ろう)になるかも!?判断する前に知っておくべき注意点は?
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経管栄養というものをご存知でしょうか?

口から食べものを食べられなくなった人が、胃や腸などに穴を開ける手術をし、そこから直接栄養剤を投与するという手法で栄養を補給するといった方法です。

つまり、口から飲食物を摂取しなくても死なずに済むという事です。

もし自分の親などが、口から食べ物を食べられなってくると、この選択を迫られる事が予想されます。

正直、究極の選択です。

極論してしまえば、自分の親を「生かすか殺すか?」の判断になるわけです。

別に正解はありません

 

個人の「尊厳」の話であり、個人の「価値観」の話であるからです

 

誰も批判は出来ません。

この記事では、そんな境遇になってしまった時に、判断の基準となるような注意点を書いていきたいと思います。

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経管栄養(胃ろう)になるとどうなるのか?

経管栄養とはなにか?

『経管栄養』とは、何らかの障害などで口から食べ物を食べられなくなった人が、医療的な処置により、腹部に穴を開けそこから栄養剤を注入して栄養を確保する『胃ろう』が代表的です。

また、一時的に口からの摂取がダメな場合などに、鼻から胃まで管を通して、そこから栄養補給をする『経鼻経管栄養』などもあります。

口から食べられなくなるということ

「口から食べ物を食べられなくなる」という事は、人間の3大欲求の一つである「食欲」を満たす部分を奪われてしまうということです。

中には

「口から食べられなくなったら死んだほうがマシだ!」

と言われる方も多いです。

それだけ、この経管栄養を開始するか否かは判断を悩まされるところでもあるわけです。

経口摂取に復帰する可能性は?

経鼻経管栄養はもちろんですが、たまに胃ろうの方でも体調の回復により、再度口から食べることが可能になる事もあります。

そういった事例もあることから、尚更、「胃ろうの造設をするか否か?」などは本人も含め、家族を悩ませるものになります。

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人の「尊厳」という概念を知っておく

「尊厳」とはなにか?

「尊厳」とは、その人を一人の人間として尊重するということです。

つまり、いくら体が不自由になったからといって、認知症で判断能力が奪われたからといって、周囲の人間が全てを決めてしまってはいけないということです。

そんな基本的人権である「尊厳」であるからこそ、命の危機がある時に、判断を委ねられると困るわけですよね。

「安楽死」を選ぶ人が増える?

日本では、「安楽死」というのは法的に認められていません。「安楽死」するためには、他人の手を借りないといけないわけで、「自殺のほう助」として扱われてしまうからです。

昨年、日本人で初めて「安楽死」を選んだ人がおられます。もちろん、日本では不可能ですから、スイスに渡ってのことです。スイスでは外国人の安楽死も可能としています。

「死」をタブーととらえる傾向の強い日本人には、重苦しい話ではありますが、超高齢社会で認知症社会が近い今、いずれこの価値観も変わってくることでしょう。

「死生観」を考えてみよう

先ほども述べましたが、日本人は「死」についてタブー視する傾向が強い国民性があります。

だから、元気な若いうちから「死」について話し合われることは本当に稀だと言えます。

「死」に対する恐怖を取り除くためのものとして、宗教などが強い力を発揮しますが、日本人は世界でも稀な宗教への進行が薄い国です。

だからこそ、個人個人が「死生観」というものを、ゆっくりと考える必要があります。

意思確認が出来ない人の「尊厳」はどう判断すればいい?

日本における意思決定

年老いた家族が何らかの大病を患い、「生きるか死ぬか」の選択を迫られる場面ってよくあることだと思います。

日本においては、それは家族に委ねられますよね。

もしかしたら、それが明日いきなり起こるかもしれないのです。

「ちょ、ちょっと、いきなりそんなこと言われても・・・。」

と言いたくなるような大きな事なのに、待ってもらえません。

だからこそ、今の内から

「親にもしものことがあったら、どうするか?」

の判断は考えておかなくてはなりません。

認知症の人の意思決定

別に生死に関わるような問題ではなくても、対象となる人が認知症の人の場合は、常に家族や後見人といった人が判断をしなくてはいけません。

命の次に困るのが「お金」の問題ですよね。

まだ認知症になる前の元気な頃は、とてもお金に執着のある人であった場合、たとえ家族であってもそのお金に触ることはちょっと嫌ですよね。

だからこそ、「延命」や「お金」については、出来るだけ早いうちから話し合っておくべき事であります。

判断を迫られる場面の種類

「延命」に関わるような大きな局面について、以下のような場面が想定されます。

延命についての判断を迫られる場合

❶食事が食べられなくなった場合

❷自発的に呼吸が出来なくなった場合

❸血液のろ過が出来なくなった場合

上記の❶が「胃ろう」などの経過栄養の話です。その他、❷のような呼吸については、自発的に呼吸できなくなった人の気管を切開して、人工呼吸器をつけるといったようなものです。気管切開すると、言葉が話せなくなるそうです。

また、❸は腎不全などでおしっこから毒素を排泄できなくなった人が、こまめに病院に通い、人工透析によって血液を綺麗にすることです。

こういった、延命のために必要な措置ではありますが、当人に判断能力がない場合、本当は死にたいと望んでいる場合に、「延命措置をしますか?しませんか?」と判断を迫られる時があります。

その場面をリアルに描きながら、40代の今から一度考えてみられることをおススメします。

さいごに

私は自分の祖父が入院中だった時に、もう既に酸素マスクはしていたのですが遂に

「もう自発的呼吸は無理だと思われます。気管切開して人口呼吸器を付けますか?しませんか?」

といったような判断を病院側から迫られる事がありました。

もちろん、自分一人で判断するわけにもいきませんから、家族や親戚に相談を持ち掛けました。

そして、やはり意見は割れるのです・・・。

悩んだ末に答えを出しましたが、なにせ呼吸に関するものですから、あまり時間ももらえません。

場合によっては、こういった判断を誤って、親戚から恨まれることもあるでしょう。

だからこそ、ご本人が元気なうちから少しでもいいから、「尊厳」や「死」について話されることをおススメします。

👇介護情報は以下の姉妹サイトでも書いています。よかったら見ていって下さいね♪

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